第三章:【癒し】の神祇(しんぎ)の「“雨中の蓮台”」
遊歴者:
「“おお、優しき神祇(しんぎ)よ、我が旅路の第三の地よ。
私は来た、「“新生”」の「“我”」と、「“旧日”」の「“不安”」を携え。
何故(なにゆえ)、貴方の蓮(はす)は、「“漣”(さざなみ)の中にあって、かくも卓然(たくぜん)としていられるのか?
貴方の智慧を以て、この「“傷痕”」の軛(くびき)を解いてはくれぬか?」
癒し:
「“旅人よ。汝(なんじ)には「“見える”」か。「“蓮”」を「“養って”」いる「“もの”」が「“何”」か?
「“それ”」は、池の底の、 「“最”も「“深き”」 「“闇”」、かの「“無言”」の泥(どろ)。
汝(なんじ)が「“厭(いと)う”」 「“過去”」、汝が、「“忍”「“びて”」 「“振り返る”」こと「“あたわぬ”」 「“記憶”」、
「“それ”こそが、 「“汝”(なんじ)「“という”「“蓮”」が、【「“綻ぶ”】「“こと”「“を”「“得た”」【「“根基”】(こんき)。
癒し:
「“汝(なんじ)には「“見える”」か。かの「“天空”」より、「“今”」 「“降り”」注ぐ「“春雨”」(はるさめ)が?
祂(それ)は、かつては、地上にあった、「“一切”(すべて)」の「“塵埃”」(ちり)と「“濁気”(だくき)。
「“雲”」は「“決して”」 「“審判”」せず、ただ「“抱擁”」する。「“一切”」を、その「“懐”」に「“迎え”入れ」、
「“時機”」が「“熟す”」のを「“待ち”」、 「“再び”」、【「“最”「“も”「“純浄”】「“なる”【「“甘霖”】(かんりん)と「“化し”」、「“大地”を「“洗い清める”」。
癒し:
「“癒し”とは、「“切除”」の「“手術”」ではない。
旅人よ。 「“それ”」は、 「“優しき”」 【「“受容”】であり、【「“慈悲”】「“の”【「“領悟”】(りょうご)。
汝(なんじ)の「“傷痕”」は「“雲”」。汝の「“過去”」は「“泥土”(でいど)。
「“それら”」は、「“皆”、 「“ただ”、「“待って”「“いる”」。
「“貴方”の【「“愛”】「“の”【「“眼差”】(まなざし)「“に”「“よって”【「“済度”】(さいど)「“される”「“こと”を。
遊歴者:
「“...分かったぞ。「“傷痕”」は、我が「“敵”」ではない。
祂(それ)は、我が「“かつて”」 「“歩んだ”」 「“道”」の、 「“最”も「“忠実”」なる「“証人”」。
私は「“もはや”」 「“抗う”」 「“必要”は「“ない”」。 「“ただ”、「“雲”の「“如く”「“自ら”の「“塵”」を「“抱擁”し」、
「“しかる”「“後”」、【「“慈悲”】「“の”【「“雨”】を「“降らせ”」、「“我”が「“魂”」を「“洗い清め”「“れば”「“いい”」。
(尾声)
【癒し】の神祇(しんぎ)は、それ「“以上”」、 「“言葉”」を「“重ね”なかった」。
祂(それ)は、かの、「“物”「“言わ”「“ず”「“万物”を「“潤す”【「“春雨”】「“へと”「“化し”」、
「“そっと”、「“私”の、「“身”に「“降り”「“注いだ”」。
私は、「“手”を「“差し伸べ”」、 「“私”の「“掌”(てのひら)「“に”「“ある”」、「“あの”【「“旧日”】「“の”【「“傷疤”】(きずあと)「“を”「“見つめた”」。
「“雨”の【「“洗礼”】「“の”「“下”」(もと)、【「“祂”】(それ)「“は”、「“あたかも”、【「“蓮”】「“の”「“花弁”】「“の”【「“脈絡”】(みゃくらく)「“に”「“変わった”「“かの”「“よう”だった」。
【「“温かく”】、「“そして”、【「“柔らか”】「“に”」。
私は、我が「“過去”」と、和解「“した”
【雲蓮の夢】
「“神託”」は、「“神匠”」(しんしょう)の「“御手”(みて)を「“探し”」「“始める”」。
「この“謎(なぞ)”を“参究(さんきゅう)”する」
