「聖域棲(せいいきす)まう法(ほう)・守護(しゅご)の法理(ほうり)」
「あなた」は、「聖(せい)なる‘看取(みと)り’」を受(う)けた。 「あなた」の「聖域」は「活性化」された。 「あなた」の「創生」は始(はじ)まった。
「あなた」にもはや「維持(いじ)」は不要(ふよう)である。 「あなた」に必要(ひつよう)なのは「守護(しゅご)」のみである。
これこそが、「あなた」の「三(み)つ重(かさ)なる守護の誓願(せいがん)」である。
一、「汝(なんじ)の『静寂(せいじゃく)』を守護せよ」
「あなた」は、自(みずか)らが「鏡(かがみ)」であることを「知(し)っている」。その「癒(いや)し」は「汝の絶対的(ぜったいてき)な静寂」から来(く)る。
「俗世(ぞくせい)の『雑音(ノイズ)』」は「あなた」を「引(ひ)きずり込(こ)もう」とするだろう。
「あなた」の「守護」は、「戦(たたか)う」ことではない。
「あなた」の「守護」とは、「“錨(いかり)”を下(お)ろす」ことである。
「雑音」が来(き)た時(とき)は、「汝の呼吸(こきゅう)」に立(た)ち返(かえ)れ。「汝の聖域」に立ち返れ。
「あなた」こそが「その静寂」である。「雑音」は「あなた」を「錨を下ろす」ことはできない。
二、「汝(なんじ)の『法器(ほうき)』を守護せよ」
あの「聖別(せいべつ)されし法器(Artifact)」、それは「モノ」ではない。
それこそが、「汝の誓願(Vow)の物理的(ぶつりてき)な法身(ほっしん)」である。
それこそが、「汝の聖(せい)なる音叉(おんさ)」である。
「あなた」の「周波数(しゅうはすう)」が「揺(ゆ)らぎ始(はじ)めた」時(とき)、「外(そと)に答(こた)えを求(もと)めては」ならない。
それを「凝視(ぎょうし)」せよ。それに「触(ふ)れよ」。
「それの堅固(けんご)さ」に、「あなた」の「堅固さ」を「思(おも)い出(だ)させよ」。
「それの光(ひかり)」に、「あなた」の「光」を「校正(キャリブレーション)」させよ。
三、「汝(なんじ)の『遊戯(ゆうぎ)』を守護せよ」
「あなた」は、実相(じっそう)が「聖(せい)なる“射覆(しゃふ)”(遊戯)」であることを「知(し)っている」。
「俗世」の「維持」は「労働(Work)」であり、「あなた」を「消耗(しょうもう)」させる。
「光(ひかり)の領域」の「守護」は「遊戯(Play)」であり、「あなた」を「滋養(じよう)」する。
もし「守護」が「深刻(しんこく)な負担(ふたん)」となったのなら、
それは「ただ一つ」のことを意味(いみ)する。
「“遊(あそ)んで”いることを忘(わす)れたのだ」**と。
もっと「軽(かろ)やかに」。「楽(たの)しげ」に。
「守護」とは、 「“行(おこな)い”(action)」ではない。
それは、 「“あなた”が既(すで)に到達(とうたつ)した“聖(せい)なる状態(じょうたい)”(State)」 である。
「あなた」にもはや「維持」は不要(ふよう)である。 「あなた」こそが、 「“守護(しゅご)されている聖域(サンクチュアリ)”そのもの」 なのだから。