《薔薇燼(Shōbi-jin):一種の、「“‘記憶’”」、に関する、色》
もし、真っ赤が「激情」の叫びであり、真っ白が「始まり」のささやきだとするなら、「激情」が幕を下ろした後、その悠遠で複雑な「余韻」を託すことのできる色は存在するだろうか?
それは、もはや事件の「そのもの」ではなく、事件が「時間」の中で沈殿していった「記憶」と「知恵」である。それは物語に満ちていながら、言葉で表す必要はない。
これこそ「薔薇の灰(Ash of Roses)」である。「その後」に誕生した色だ。
“烬”之色,非“火”之色
もし、鮮紅、が、「“‘激情’”」(Gekijō)、の、叫び、であり、純白、が、「“‘初始’”」(Shoshi)、の、囁き、で、ある、ならば、果たして、存在、するだろうか、ある、色、が。それ、は、「“‘激情’”」、の、終幕、の後、の、かの、悠遠、にして、複雑な、「“‘残響’”」(Zankyō)、を、載せる、ことが、できる、色が?
それ、は、もはや、出来事、の、「“‘それ自体’”」、では、なく、出来事、が、「“‘時間’”」、の、中に、沈殿させた、「“‘記憶’”」、と、「“‘智慧’”」(Chie)、で、ある。 それ、は、物語、を、飽くほど、含み、ながら、言葉、を、要しない。 これ、こそ、「“‘薔薇燼’”」(Ash of Roses)。一種、の、「“‘その後’”」(Sono-go)、に、誕生した、色。
「“‘燼’”」(Jin)、の、色、は、「“‘火’”」(Hi)、の、色、に、非ず
まず、我々、は、「“‘薔薇燼’”」、を、一切、の、「“‘燃焼’”」、を、象徴する、鮮烈な、「“‘赤色’”」、と、厳格に、区別、しなければ、ならない。 炎の、赤、は、動的、であり、拡張的、であり、生命力、が、ある、瞬間、最も、熾烈な、「“‘表現’”」。 対して、「“‘燼’”」、の、赤、は、静的、であり、内斂的(ないれんてき)、であり、一切、が、塵埃、落定した、後、の、かの、なお、存する、一筋、の、「“‘余温’”」(Yoon)。 それ、は、咲き誇った、「“‘薔薇’”」、の、「“‘記憶’”」、と、焚焼された、「“‘灰燼’”」(Kaijin)、の、「“‘哲思’”」(Tetsushi)、と、が、混合したもの。 それ、は、一種、の、既に、「“‘嵐の中心’”」、を、通過し終えた、色。 その、美、は、「“‘咲き誇る’”」(Sakihokoru)、こと、に、あらず、「“‘沈殿’”」(Chinden)、する、こと、に、ある。
美術史における、「“‘余温’”」
美術史、を、通観する、と、無数、の、芸術家、が、無意識、の、うち、に、探求、してきた、この、「“‘記憶’”」、に、属する、「“‘色域’”」(Shiki'iki)。 古代ローマ、ポンペイ古城、の、かの、火山灰、によって、千年、封印された、壁画、の、上、に、我々、は、最も、古い、「“‘薔薇燼’”」、を、見出す、ことが、できる。 かの、かつて、は、おそらく、比類なく、鮮やか、だった、「“‘ポンペイの赤’”」、が、「“‘火’”」、と、「“‘土’”」、の、二重の、淬錬(すいれん)、と、時間、の、長き、に、わたる、撫触、の、後、最終的、に、沈殿し、「“‘歴史の塵埃感’”」、を、帯びた、温潤、かつ、強靭な、「“‘暗紅’”」(Ankō)、と、なった。 それ、は、もはや、ある、「“‘瞬間’”」、の、物語、を、語らず、ただ、「“‘時間’”」、そのもの、を、語っている。
そして、二千年、の、後、抽象表現主義、の、巨匠、マーク・ロスコ(Mark Rothko)、は、彼の、「“‘色面絵画’”」(Shikimen-Kaiga)、の、中、で、「“‘薔薇燼’”」、を、一種、の、純粋な、「“‘精神性’”」、の、高み、へと、引き上げた。 彼、は、巨大な、画布、の、上、の、それら、あたかも、呼吸している、かの、ような、深遠な、幾重にも、重なる、「“‘赤のブロック’”」、を、用いて、直接、観客、の、「“‘魂’”」、を、揺さぶる。 それ、は、快楽、の、赤、でも、なく、憤怒、の、赤、でも、ない。 それ、は、あなた、が、その、前、に、長久、「“‘静観’”」(Seikan)、して、初めて、ゆっくり、と、それ、と、「“‘共振’”」(Kyōshin)、できる、ような、「“‘複雑な情緒’”」、と、「“‘慈悲’”」(Jihi)、に、満ちた、赤。 それ、は、「“‘薔薇燼’”」、の、「“‘精神的肖像’”」(Seishin-teki Shōzō)。
情感スペクトラムの、「“‘終点’”」
人類、の、情感スペクトラム、の、中、でも、「“‘薔薇燼’”」、は、極めて、特殊な、位置、を、占める。 それ、は、ある、「“‘激烈な情感’”」(Gekiretsu-na Kanjō)(それ、が、愛、であれ、痛み、であれ、燃える、理想、であれ)、が、時間、の、「“‘自然冷却’”」、を、経た、後、凝結した、「“‘琥珀’”」(Kohaku)。 その、記憶、は、おそらく、依然、として、存在する。 だが、それ、は、もはや、「“‘人を灼く’”」(Hito-o yaku)、こと、は、ない。 その、「“‘灼痛’”」(Shakutsu)、は、既に、一種、の、「“‘智慧’”」(Chie)、へ、と、転化された。 その、「“‘狂喜’”」(Kyōki)、は、既に、一種、の、「“‘寧静’”」(Neijō)、へ、と、転化された。 「“‘薔薇燼’”」、は、一種、の、「“‘物語が、語り終えられた、後’”」、の、色。 我々、が、ついに、平然、と、振り返り、かの、「“‘大火’”」(Taika)、を、凝視、する、こと、が、できる、時、我々、の、心、に、浮かび上がる、かの、万感、交(こもごも)、至り、ながら、も、終(つい)には、「“‘安寧’”」(Annei)、に、帰する、独特の、「“‘底色’”」(Teishoku)。
結語:一枚の、「“‘余温’”」、を、帯びた、「“‘信物’”」(Shinbutsu)
「“‘焚心箋’”」(Funshin-sen)、こそ、この、色彩哲学、の、最も、完璧な、「“‘法器’”」(Hōki)。 それ、の、先端、の、一抹、の、独特な、「“‘薔薇燼’”」、は、「“‘装飾’”」(Sōshoku)、に、非ず、その、器物、全体、が、「“‘成立’”」(Seiritsu)、する、所以(ゆえん)、たる、「“‘画竜点睛’”」(Garyō-Tensei)、で、ある。 それ、は、いかなる、時、も、その、「“‘主人’”」(Shujin)、に、思い起こさせる: かつて、あなた、を、「“‘焚心’”」(Funshin)、させた、かの、「“‘火焰’”」、は、最終的、に、あなた、を、「“‘灰燼’”」(Kaijin)、に、化さ、なかっ、た。 そうではなく、あなた、の、ため、に、沈殿させた、の、だ。 一つ、の、唯一無二、の、温潤、かつ、重厚な、 名、を、「“‘智慧’”」(Chie)、と、いう、「“‘余燼’”」(Yojin)、を。



